新庄 剛志の伝説

入団時は外野手だったが、後に遊撃手に転向した時期もあり・・・

阪神タイガース時代の新庄剛志の伝説

入団時は外野手だったが、後に遊撃手に転向した時期もあり内野も守れる。1999年には二塁を守ったこともあり、また2000年のオールスターゲームでは三塁を守ったことがある。

1992年5月26日の横浜大洋ホエールズ戦(甲子園)でプロ初スタメン。トーマス・オマリーの故障により出番が回ってきた。第1打席の初球をレフトへプロ初本塁打(投手:有働克也)。このときのポジションも内野(三塁手)。その後、オマリーの復帰により中堅手にコンバート。

1992年6月20日の横浜大洋ホエールズ戦、ホームランになりそうな打球を自身の名前の書かれた応援旗でたたき落とされ二塁打になったことがある。

阪神タイガースのユニフォームに文句をつけて、ビジター用ユニフォームからタテジマをなくさせた。(ビジター用ユニフォームのタテジマ廃止は2001年春のキャンプ中の野村監督の選定で、すでに新庄はタイガースに籍がなかったのでこの説には疑問あり。)1999年オールスター戦で新庄はホーム用ユニフォームにビジターの黒帽子で登場、MVPをとる。これが野村監督が2000年から縦縞帽子を廃止にするキッカケになったという説がある。

「ジーパンが穿けなくなるから」という理由でウェートトレーニング拒否を宣言した。

1994年秋季キャンプにおいて、山内一弘コーチに「チャンスに強く、常にファンを喜ばせるだけの華がある。王貞治ではなく、長嶋茂雄を目指せ」と声をかけられたが、「長嶋って誰?」と答えた。

プロ4年目に年俸が2200万円(推定)になったので、新庄は約2000万円のベンツを購入。残った200万円で生活をしようとしたが、税金のことを忘れていて、結局、叔父に助けてもらったとのこと。

阪神では桧山進次郎と仲がよく、また当時若手だった今岡誠によく食事をおごっていた。今岡は新庄の影響で現在は自らが若手にごちそうしているとのこと。

当時新庄が憧れていた選手はダリル・ストロベリー。そのため背番号を63から変更する際に、新庄はストロベリーのつけていた44を希望していた。結局5に落ち着いたが、44になっていたらランディ・バースやセシル・フィルダーなどが築き上げた「阪神の背番号44は強打の外人」というイメージを大きく変えたかもしれない。本人は、「カクカクしてるから。自分に合っていると思う。」とコメントしていた。

普通の外野フライもジャンピングキャッチするという守備スタイルについて、少年野球の指導者から「野球少年に悪影響をおよぼす」と指摘されたことがある。ちなみにこのスタイルは高校時代、先輩が2階から落とす生卵を割らないようにキャッチするというトレーニングを行って身につけたものだが、阪神時代に打球を顔面に受けたことが原因で大熊忠義コーチから一時禁止されていた。日本ハムに移籍してからはこれまで通り、引退するまでジャンピングキャッチを貫いた。

なお新庄自身はジャンピングキャッチの利点について、2006年4月13日放送のテレビ朝日『NANDA!? 新装開店SP 新庄剛志ってナンだ!?』のトークで「打球から目をそらさず、ジャンプの最高点に到達した時点で捕球する事で打球の勢いを殺すことが出来る」と解説している。ちなみに、イチロー(現シアトル・マリナーズ)も普通の外野フライをジャンピング・キャッチする事が多い。 * 若い頃は吉川晃司に似てると言われ、吉川のファッションをよく真似た。

黒ずんだ歯が嫌で100万円かけて真っ白い歯に総入れ替えした。この時、関西のスポーツ紙や阪神ファンから大批判を浴びた。

当時の阪神監督であった藤田平との確執により中日ドラゴンズへのトレードを自ら勝手に打診するも、当時の中日監督である星野仙一に説得され残留。そしてFA時にその中日から声が掛かるも拒否。理由は「名古屋の街が好きじゃないから」。当然星野は激怒した。

なおこの時、後に新庄を指導することになる野村克也が、「新庄君も男なんだから女の腐ったのみたいにしててもしょうがない」とサンデースポーツで発言し、草野満代キャスターが困惑する一幕もあった。

1997年のオールスターゲームにはファン投票セ・リーグ2位で出場するも、シーズン最低打率という体たらくに怒ったファンが応援をボイコット、抗議の横断幕までもが掲げられた。7月23日の第1戦(甲子園)では、新庄の打席になるとグラウンドにペットボトルが投げ入れられ、試合が中断する一幕があった。

漫画『クレヨンしんちゃん』の中で野原みさえが新庄のファンになるエピソードがある。

1999年6月12日の巨人戦(甲子園)で槙原寛己投手から敬遠球サヨナラヒットを放った(ちなみに、その時のランナーは後に再び同僚になる坪井智哉)。野村監督をして「アイツは宇宙人」と言わしめる。このプレーについては、後のテレビ番組で「柏原純一打撃コーチと事前に練習していた」と語っている(柏原も現役時代に敬遠球を打ち、ホームランにした経験がある)。

なお、この日の試合では代打を出した関係で内野手が足りなくなり、途中から二塁の守備に就いていた。その日のヒーローインタビューで「明日も勝つ!」といったが翌日は見事に敗戦。1999年9月10日の巨人戦で決勝ホームランを放って、再びお立ち台で「明日も勝つ!」と発言するも、翌日から球団タイ記録の12連敗を喫した。

また日本ハム時代の2004年9月20日に幻のサヨナラ満塁ホームランを打った時にも「明日も勝つ!」と発言。翌日日本ハムは勝ったが阪神がその日から2連敗した。

野村克也監督時代に投手に挑戦し、二刀流と呼ばれた。オープン戦で登板したときは球速142km/hを記録し、打者二岡智宏を内野ゴロに打ち取った。野村監督曰く「投手の心理を理解させるため」ということだが、阪神OBや野球解説者から反対の声が多かったため、わずか数試合で頓挫した。

1998年オフ野村監督に指導を受けた際「一度に言われても覚えきれません、また今度にして下さい」と言って練習を切り上げた。

阪神入団時に購入したグラブを修理、補修しながら引退まで使用していた。プロに入って最初の給料で購入した。値段は7500円である。日本シリーズ終了後翌10月27日の記者会見では、「こいつと17年間やってきて、こいつがもう限界だと言ってきたので引退を決意した」と発言した。そのグラブの親指部分には阪神入団時の「TH 63」(阪神のロゴと、当時の背番号)が書いてある。

新庄剛志ヒトリファン倶楽部 | 引用「WIKIPEDIA」